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石田三成、西軍敗北へ3つの戦略ミス 「関ケ原」の研究(中)

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妥協して時間を味方にする道はなかったか

 家康と三成の政治指向には共通点も少なくない。「徳川家康」(ミネルヴァ書房)の笠谷和比彦・国際日本文化研究センター名誉教授は家康政治の特徴として「法の支配」を挙げる。家康は「武家諸法度」「宮中並公家諸法度」など多方面で法の整備を推進した。一方、太閤検地の具体的な推進者だった三成の目指したものも税収の全国共通ルールの徹底だった。中野等・九州大学教授は江戸時代に老中らには譜代大名が就任し、前田・伊達といった大々名に参画させなかった制度の原型を豊臣政権末期の「5大名・5奉行制」にみるという。「基本的には権威と権力の分離で、豊臣時代の大老にも具体的な政治的権力はなかった」(中野教授)としている。また家康の生涯の趣味として「鷹(たか)狩り」が知られているが、三成にも自分の鷹のすばらしさを喜々として語る書状が残っている。

 水野伍貴氏は関ケ原前夜には一時的に徳川家と石田家が友好的な関係にあったことを指摘する。家康が京都・伏見城から大阪城に移る際に安全のため実兄の城内屋敷を提供している。家康も三成の嫡子の大阪城勤務を認めている。「終始反家康の立場を貫き常に挙兵の機会を狙っていた、時勢の読めない人物ではなかった」(水野氏)。家康と三成は最初から仲が悪かったわけでもない。家康60歳、三成39歳、秀頼6歳。三成には家康と妥協して時間を味方に付ける選択はなかったのか。

 水野氏は「三成が秀吉家臣団中で頭角を現していったのは、ちょうど秀吉が織田家の権力を奪取していく時期だった」と話す。秀吉は本能寺の変後、信長の嫡孫・秀信を立てつつ子息の信孝、信雄を攻めていった。その経緯を間近で見ていたのが側近の三成だった。「自分の経験から、家康が死去する前に豊臣家が消滅すると読んいでたのではないか」(水野氏)。光成氏は秀吉が三成の外交担当に上杉、佐竹、真田といった「家康包囲網」の諸大名をあて、一貫して家康に対抗する立場に置いていたと指摘する。秀吉が生きている間は対立することはなかった。しかし「三成の心中には家康を潜在的な敵と見なす秀吉の底意が刻み込まれていったのではないか」と光成氏は推定している。

(松本治人)

キーワード:経営、管理職、企画、人事、人材、経営層

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