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石田三成、西軍敗北へ3つの戦略ミス 「関ケ原」の研究(中)

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三成は西軍のリーダーではなかった

大阪城の西軍首脳と三成の戦略にブレがあるのが致命的弱点だった(大阪市)

大阪城の西軍首脳と三成の戦略にブレがあるのが致命的弱点だった(大阪市)

 最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点だ。西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊--と多い。三成が指導する方針で皆が一致したわけではなかった。これまでは三成が「反徳川」のリーダーとして毛利や宇喜多らを誘い込んで関ケ原の戦いに臨んだと説明されてきた。しかし「秀吉死後の権力闘争と関ケ原前夜」(日本史史料研究会)の水野伍貴氏は「三成は西軍首脳の1人ではあっても首謀者ではない」という。単独で反徳川闘争を始動し、後から大々名へ協力を呼びかけるような無謀な人物ではなく、むしろ毛利、宇喜多ら大老グループが積極的だったため連携に踏み切ったという。毛利輝元は1年半前に三成が失脚した「7武将襲撃事件」でも三成側での軍事行動を考えていたという。「毛利輝元」(ミネルヴァ書房)の光成準治・九州大大学院研究者は「西軍は共同謀議で決起したが、豊臣家を守るという三成の思惑と毛利家を拡大したいという輝元の思惑が異なる同床異夢状態が西軍の弱点だった」と指摘する。

 その毛利輝元が、家康との不戦協定へスタンスを変えていく。(1)上杉征討軍のほとんどがそのまま家康に従ったこと(2)岐阜城が簡単に陥落したこと(3)大津城・京極氏の離反――といった西軍の予想外の不利な状況が続いていたからだ。さらに「輝元自身、当初から短期間での決着を望んでいなかった」と光成氏は言う。政治的混乱が長引き、その間に四国・九州など西国の掌握を輝元が企図していたためだ。従来は毛利一族の有力武将であった吉川広家が、独断で黒田長政ら東軍と交渉したとされてきたが、最新の研究では輝元自身の指示で吉川広家が動いたとされる。輝元が信頼する側近で、戦後には西軍首脳の1人として処刑される安国寺恵瓊も、そうした自軍の動きを黙認していたという。結局毛利軍の不戦と小早川秀秋の裏切りが関ケ原合戦の東軍勝利を決めたのは周知の通りだ。だが戦後処理は輝元の期待と裏腹に領国を約3分の1に減封されるという結果に終わった。

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