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徳川家康、「関ケ原」は戦いたくなかった? 「関ケ原」の研究(上)

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勝因は家康の「ぶれない強さ」

 ただ今度は秀忠軍が間に合わなかった。当時の命令伝達速度の問題から、家康が早期決戦に切り替えたことなど知るわけもなく、秀忠は従来方針通り上田城を攻めて苦戦などしていた。結局関ケ原の戦いは、実態が豊臣系大名同士が東西両軍に分かれての戦闘になった。戦後処理で西軍から没収した約630万石のうち、約8割の580万石が東軍の豊臣系武将に配分された。開戦当初に「徳川四天王」の井伊直政が抜け駆けしたというエピソードは、戦場で存在感が希薄な徳川軍のアピールを狙ったのかもしれない。

 一方で「関ケ原合戦の布陣については諸説入り乱れた状態で、小早川秀秋が松尾山にいたこと以外ほとんど分かっていないのが現状」(水野氏)との指摘もある。水野氏は「古戦場の発掘調査で鉄砲の弾が1つも出てこなかったなどが背景にある」という。小早川の裏切りを促すため家康が鉄砲を撃ちかけたとの有名なエピソードも、実は後世の創作ではないかという説が出され、支持する研究者も少なくない。しかし笠谷氏は「華々しい一斉射撃ではなく、誤射を装った警告の鉄砲射撃だった」と唱える。家康は細心の注意を払いながら参戦を促していたという見立てだ。

 誤算続きであったにもかかわらず、最終的に家康が勝利できた要因はどこにあったのか。1つは家康が中央政局の動きに集中し、政権奪取の目標が終始ぶれなかったことにあるだろう。毛利輝元は四国・中国への侵攻を図り、上杉景勝は江戸の徳川軍ではなく山形地方へ進出したりしていた。輝元は養子への領土割譲、景勝は自領の未整備という内部の問題があり、領土拡大が大きな関心事だったようだ。水野伍貴氏は「毛利も上杉も政権中枢の問題のみに集中できなかったのに対して、家康は権力奪取に集中できたことは大きい」としている。政権問題のみに注力していたのは、家康を除けば、あるいは三成だけだったかもしれない。三成は関ケ原の戦備のために蓄えを使い切ったという。九州で活躍した黒田如水も含め、みな戦国時代の再来まではいかないとしても、相当な長期戦を予想していたのだろう。江戸進発後の家康だけが短期決戦を指向していた。

 さらに「関東250万石の経営が順調で省みる必要がなかったことが大きい」と光成準治氏は指摘する。秀吉死後、領国経営のため帰国する有力大名が相次いだ。家康だけが京都・大阪に滞在し続けた。宇喜多秀家は家中を二分する「宇喜多騒動」を引き起こし、島津義久、義弘は重臣の「庄内の乱」の解決に追われていた。関ケ原の10年前になる家康の関東転封は畿内からより遠ざけたい秀吉の計算が働いたともいわれる。家康自身も本拠地の東海・中部地方から離れるのは当初本意ではなかったかもしれない。しかし「家康は関東へ移ったことをプラスに作用させた」と水野氏は言う。「従来の土地とのつながりがリセットされたことで家臣団の再編成が可能になった。井伊直政や本多忠勝、榊原康政が多くの領地を与えられ、全国レベルで頭角を表し始めたのはこのタイミングだった」(水野氏)。不本意な異動をプラスに変え、結果的に中枢での存在感を大きくしていくことができたという。

(松本治人)

キーワード:経営、管理職、企画、人事、人材、経営層

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