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徳川家康、「関ケ原」は戦いたくなかった? 「関ケ原」の研究(上)

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徳川軍団、誤算の連鎖

織田信長の居城だった岐阜城は東軍の攻撃で陥落した(岐阜市)

織田信長の居城だった岐阜城は東軍の攻撃で陥落した(岐阜市)

 宇喜多秀家も積極的に参加した。直前に家中の内紛があったことから自分の方針に賛成しそうもない家臣はあらかじめ外しておくという周到さだった。事前の謀議に加わっていた可能性は高い。「上杉が健在なうちに家康に対抗しないと、次は自分たちがやられる番という認識が西軍首脳には共有されていた」と光成氏は話す。

 日本国際文化研究センターの笠谷和比古・名誉教授は「徳川家康」(ミネルヴァ書房)で「増田長盛ら3奉行が三成側に付いたのが大誤算だった」としている。家康が独裁権を握っていた約1年間、3奉行は家康に忠実に従って全国行政を処理していた。三成挙兵直後は、3奉行も淀殿も家康寄りで「不穏な情勢を鎮圧してほしい」との書状を遠征先に送っている。しかし三成らが説得し、毛利参戦なども確認するに至って西軍有利と判断した。3奉行は家康に対する弾劾状を全国に発送、家康は公的権力者としての立場を剥奪され、一転「叛徒(はんと)」の立場に落とされたという。各個撃破どころではない。2大老・4奉行(三成復帰を含む)を同時に敵としたわけだ。

 家康は8月5日に江戸城へ戻り、嫡子・秀忠の徳川主力軍3万8千を中山道経由で先発させるものの自身は約1カ月滞在し情勢を見守った。笠谷名誉教授は「福島正則ら義務的従軍で付き従ってきた武将がどう出るか分からなかったからだろう」とみる。清洲城(愛知県清須市)まで進んだ福島ら豊臣系武将に積極的に西軍との開戦を促す使者を送ったのは「東軍からたもとを分かつ者をあぶり出す家康一流の作戦」(笠谷氏)のはずだったが、ここから徳川軍団の誤算の連鎖が始まった。

 挑発的な督戦の言葉に激高した福島、池田輝政ら東軍の武将は、勢いにまかせて堅城で知られる岐阜城を半日で陥落させてしまう。さらに三成ら西軍首脳が集まる大垣城まで、目と鼻の先の距離まで進撃した。督促の効き目があり過ぎ、このままでは家康も秀忠も参加しないうちに東西決戦が決着してしまう恐れが生じてきたわけだ。そうなれば「家康は戦後における立ち位置を失い、政治的発言権はなくなる」(笠谷氏)。

 家康にとっては予想を上回る早い展開であったため、慌てて強行軍で東海道を進んだ。むろん前線の諸将には不用意に戦端を開かないように自制を促す書状も送った。9月1日に江戸を出発した徳川軍は約3万3千の大軍。ただ1万石以上の大名クラスは秀忠軍に加わっていたため家康を守る防衛的な性格が強い旗本中心だったという。最前線に到着したのは14日で「家康抜きの関ケ原」という最悪の事態は回避できた。

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