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徳川家康、「関ケ原」は戦いたくなかった? 「関ケ原」の研究(上)

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家康のポリシーは「政敵を各個撃破」

東西両軍は交通の要衝である関ケ原で激突した(岐阜県関ケ原町)

東西両軍は交通の要衝である関ケ原で激突した(岐阜県関ケ原町)

 同年9月には前田利長を失脚させた。さらに名目上の最高権力者である豊臣秀頼の大阪城に乗り込み、幼君をたてる形で事実上の独裁権を握った。秀吉死去から約1年、家康が「天下様になった」と世間で噂されたという。家康派大名が7日間で合計13万石加増されたこともあったという。大名への加増は、本来秀頼にしか許されない最高レベルの権限だ。

 「泣くまで待とうホトトギス」の句が表すように、家康には「忍耐」「熟柿(じゅくし)作戦が得意」とのイメージが強い。しかし当時58歳の家康は素早く動き権力闘争に勝利した。一方で「政敵を1度に1人ずつ失脚させる方法を貫いた」と水野氏は手堅い個別撃破の戦略にも注目する。三成失脚時には毛利輝元が支援しているのを承知で「(家康と輝元は)今後は兄弟の間柄」と友好関係を結んだ。前田家と上杉景勝との連携説があった時も、利長に標的を絞り上杉は不問にした。その上杉打倒は00年6月まで待って開始した。「会津征伐」で徳川軍に豊臣家諸大名を加えた正規軍で、遠征の準備を担当したのは増田、長束、前田の3奉行だ。家康が畿内を離れれば屈服していた反対派が蜂起するだろうという予想は当時幅広く共有されており、日本にいた朝鮮人の日記などにも記されている。当初は加藤清正だと思われていたようだ。

 家康も当然、反対派挙兵の可能性は折り込み済みだっただろう。しかし「大規模にはならないと楽観していた」と水野氏はみる。実際、最初は三成と大谷吉継が蜂起(7月12日)した程度と伝わっていた。第1の誤算は毛利輝元の参戦。輝元には優柔不断な性格のため周囲にすすめられるまま西軍総大将に担ぎ上げられたとの印象が強い。しかし光成準治氏は「輝元自身が積極的だった」と指摘する。中国地方に帰国していた輝元がただちに畿内に戻った早さから「事前に三成らと相談・準備していた可能性が強い」と光成氏。7月17日に大阪城へ入り、四国・中国地方へも出兵した。

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