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永田鉄山なら負ける戦争を阻止できたか 日本陸軍の研究(下)

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 「負ける戦争はするな、ということに尽きる」――。深い洞察力で知られた政治ジャーナリストの岩見隆夫氏は晩年に、それまでの記事や著作とは趣が異なる「敗戦 満州追想」(原書房)を出版し最後の病床で語気を強めながらそう語った。確かに1930年代からの日本は、戦争に負けるために45年8月まで突き進んでいった印象を受ける。もう引き返せない「ポイント・オブ・ノーリターン」はどこだったのか。敗戦からさらに10年前の35年8月に暗殺された永田鉄山・陸軍中将への見直しが進んでいる。「戦争阻止のための希望だった」との評価すら出ている。

「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」

「国家総動員体制」を目指した永田中将への関心が高い

「国家総動員体制」を目指した永田中将への関心が高い

 「永田鉄山」と聞いてもピンと来る読者はそう多くはないだろう。開戦時の東条英機首相、真珠湾攻撃の山本五十六元帥らに比べると、その知名度はグンと落ちる。しかも永田は、一般国民までも戦争に駆り立てる「国家総力戦」「国家総動員体制」づくりを進めた中心人物だった。陸軍士官学校で1期後輩の東条が永田に私淑していたことも知られている。強引に軍国主義を推し進めた1人として批判的にとらえられることも多かった。

 その一方で若い頃から「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」「将来の陸軍大臣」といわれた陸軍きっての逸材でもあった。陸軍幼年学校、陸軍士官学校を1位、陸軍大学は2位の成績で卒業してエリートコースを駆け上がり、34年に陸軍省内の最重要ポストである軍務局長に就任して、手腕を振るった。この軍務局長経験者から陸軍大臣になるケースが多く、さらに桂太郎ら4人の首相も出ている。永田は中堅エリート将校を中心とした「統制派」のリーダーでもあった。陸軍内で対立したのが、急激な国家改造を主張する青年将校らの「皇道派」だ。永田は軍内の統一に努めたが派閥抗争はエスカレートし、35年8月12日に執務中の局長室で皇道派の中佐による凶刃に倒れた。15日の告別式には当時の岡田啓介首相らが参列して、その死を深く悼んだという。

 暗殺から82年経た今日でも永田への関心が高いのは、その後の対中・対米戦争に際して具体的な戦略ビジョンを描けたであろう数少ない人物とみられているからだ。第1次世界大戦を欧州で体験した永田は、次の戦争が軍事力だけでなく経済、産業、教育、宣伝など全ての国力を投じる長期戦になると見通していた。第2次世界大戦は日本軍が当初期待した「短期決戦」にはならず、永田の予想した総力戦、長期戦となった。

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