天下人たちのマネジメント術

「信長スクール」戦国トップの教育

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 「信長スクール」より以前から戦国トップが直接人材養成していたのが、ライバル・武田信玄の「奥近習システム」だ。「武田氏滅亡」(角川選書)などの平山優・武田氏研究会副会長は「近習の中からとりわけ将来を見込んで選抜した若者たちが奥近習で、信玄の寝所まで入ることができ、日常的な薫陶を受けていた」と指摘する。使者、来客の接待、戦場の偵察、新たな仕官志望者の面接、家中の人事評価まで担当させていたという。少年のころから信玄に直接仕え私心のないことが認められていた。

武田信玄も自らが若い人材の要請に取り組み真田昌幸らを育てた(甲府市)

武田信玄も自らが若い人材の要請に取り組み真田昌幸らを育てた(甲府市)

 武田家は戦国期きっての名門のひとつだ。それだけに閥族の力が強く、新たな人材登用には困難が伴っただろう。平山氏は「『奥近習』こそ信玄が自由に側に置くことができる人事システムの空白区域だった」と分析する。信玄と限られた重臣との秘密会議を傍聴する資格まで、奥近習には与えられていた。「そこで信玄自身の帝王学を仕込み、あうんの呼吸を身につけた若手の育成に努めたのだろう」(平山氏)。奥近習出身を代表する武将に真田昌幸がいる。「信玄が『我が両眼のひとつ』とまで高く評価していた」という。歴史上、江戸幕府を開いた徳川軍に2度完勝したのは昌幸だけだ。1度目は150万石対6万石、2度目は250万石対6万石(石高は推定)。それでいて、昌幸には家康に気後れした様子がない。かつて信玄は三方原の戦いで家康を破っている。「信玄より伝授され、そばで信玄の采配をみて育った昌幸には十分な勝算があったのだろう」と平山氏はみる。

降将の人質を抜てきした信長

 信玄の「奥近習システム」は範囲が武田家中に限られていた。その限界を簡単に超えて、信長は降伏してきたばかりの敵将の人質まで抜てきした。信長と敵対していた六角氏の重臣、蒲生賢秀は1568年に降伏し13歳の子息・氏郷を人質に差し出した。初対面で「此の児、眼常ならず」と信長が認めたという逸話が「勢州軍記」に伝わっている。藤田教授は著書「蒲生氏郷」(ミネルヴァ書房)の中で「フロイスが見た岐阜城の若い貴人たちの中に氏郷がいた可能性は強い」としている。信長は人質を城内で監禁していたのではなかった。氏郷には儒教や仏教、和歌、連歌、茶の湯、作庭を名だたる高僧や一流の公家らに学ばせた。信長流の英才教育だったのだろう。戦上手の武人というだけでなく、氏郷は茶道で「利休七哲」の1人に数えられるほどに後年なっている。藤田教授は「岐阜城にいた時期が氏郷の生涯にとって最も重要な意味を持った」と評価している。

 こうした期待に氏郷も応えた。信長の夜話の途中で眠ってしまう小姓もいる中で、氏郷だけはいつも熱心に聞いていたという。初陣で敵の大将を討ち取る殊勲を飾り、信長は自分の娘と結婚させて女婿とした。以降、畿内掃討戦から対武田戦まで氏郷は信長に従って戦いを続けた。本拠地の滋賀県日野町では「楽市・楽座など信長譲りの積極的な商業振興策や城下町づくりを進めた」(同町教育委員会)という。

 社員教育に関心を持たない経営者など、国内外のどこにもいない。ただ経営学者の入山章栄・早稲田大ビジネススクール准教授は「グローバル企業の人材育成に共通しているミッションの一つは、その市場・ビジネス環境の特性にしっかりと適応できる人材を育てることだ」と言う。求めているのは、その会社に適合することや忠誠心などではない。個々の事業の切り出しなど経営環境の変化にも対応できる人材作りが1番の狙いだという。森蘭丸ら信長スクールの多くは本能寺で信長と運命をともにした。しかし生き残った出身者は次の時代に相次ぎ大名になった。長谷川秀一は越前で10万石、堀秀政は同北庄で18万石(与力大名らも合わせると約30万石)、蒲生氏郷は奥州会津に91万石。

 しかもみな早世してしまったが、せめて秀吉より長生きすればその後の歴史はどう動いたか分からないとの評価も残っている。信長スクールの人材育成策には、現代でも通用するヒントがあるかもしれない。(松本治人)

キーワード:経営、管理職、企画、人事、人材、経営層

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