天下人たちのマネジメント術

「秀吉神話」の虚実に潜む危機管理能力 検証・本能寺の変(下)

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 対峙していた3万ともいわれる毛利大軍の追撃は心配なかったのか。「高松城の水攻め」など毛利家関連を研究している光成準治氏(「信長の合戦史」吉川弘文館)は、当時、秀吉は毛利方の物資輸送手段を断つ戦略を取り、ほぼ成功していたという。「秀吉は毛利軍の窮状を当然知っていた。休戦を呼びかければ毛利方が応じること、撤退しても追撃して来ないことが分かっていた」と分析する。「講和時点で毛利軍首脳部のみは本能寺の変を知っていた可能性がゼロではない」と光成氏は言う。それでも毛利軍は結局講和するしかなかったと結論付ける。

 織田軍の司令官クラスで弔い合戦の意志と兵力を維持していたのは柴田勝家だけだった。北関東の滝川一益は駆けつけるには遠すぎ、大阪の丹羽長秀は兵力が少なかった。同盟者の徳川家康は東国方面へ関心を示していた。勝家が本能寺の変を知ったのは秀吉の2日後、6日だという。上杉景勝と交戦中で、敵の本拠地である越後へ突入する寸前だった。当時の勝家の書状を考察した金子拓・東大史料編纂所准教授は、勝家は1日約50キロという猛スピードで9日に本拠地の越前・北庄に戻ったと推定する。秀吉軍を上回る行軍速度だ。ただその後、大阪の長秀らとの連携を模索しているうちに山崎の戦いは終わっていた。藤田教授は「秀吉の方は、できるだけ早く多数の軍勢を戦場に行かせることだけを優先していた」とみる。遺児の信孝を名目上の総大将に据え、畿内の織田軍団を加えた時点で、総兵力は約4万に達したともいわれる。対する光秀軍は1万数千。山崎の戦いに向かう際、秀吉は必勝を確信していただろう。

「超二流」が一流リーダーに変わる時

 経営学者である入山章栄・早稲田大ビジネススクール准教授は「シナリオプランニング」から秀吉の行動を読み解く。英蘭ロイヤル・ダッチ・シェルなどが重視している考えだ。入山准教授は「秀吉は想定外の事態への対応方法を日ごろから考えていたのではないか」と推測する。さらに実際の危機的状況の中で、秀吉は何を優先すべきかを明確に把握していた。目の前の敵との交戦を中止し本拠地に急行するまでは、秀吉も勝家も同じ。そこからの違いが後の明暗を分けた。「勝家は自分にとっての優先順位があやふやだったようだ」(入山准教授)。服部館長は「本能寺の変を聞いた段階でただちに東上を手配した行動は卓越している。情報を操る名手でもあった」と評価する。ただ「本能寺」以前は織田軍団中のナンバー3かナンバー4で、秀吉は軍事的には有能だが教養などのない「超二流」の位置付けだった。何が秀吉を一流に押し上げたのか。服部館長は「信長という大きな存在を失ったことで秀吉のパトス(情熱)が噴出したせいではないか」と言う。

 「ローマ人の物語」「わが友マキアヴェッリ」などの著作で知られる作家の塩野七生さんは、秀吉が信長にほれ込んでいたとユニークな見方を示している。「男は、神を男同士の中に求める」(「男の肖像」文春文庫)。愛する信長の敵討ちという激情が秀吉を動かしたと指摘。「無我夢中でとびかかっていくうちに、凡人も天才に一変している」と結論している。一流リーダーの誕生は、あるいはそういうことで起きるのかもしれない。

(松本治人)

キーワード:経営、管理職、企画、人事、人材、経営層

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