天下人たちのマネジメント術

信長「カリスマ経営者」の死角 検証・本能寺の変(上)

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 これまでカリスマ・信長の独裁的な性格、一種の狂気を示すエピソードとして語られてきたが、藤田教授は大規模な幹部入れ替えを信長が計画していたとみる。勝家、秀吉、光秀ら軍団長クラスより1世代若く、信長への忠誠心がより厚い直臣層と織田一族の登用だ。本能寺の変がなければ「優秀な近習、一門を畿内周辺に配置し重臣層を領国外縁部へ転封させていただろう」(藤田教授)。

 入山准教授は「よりビジョンを共有できる幹部団への交代は経営学的に正しい選択とはいえる」と語る。一つの例が平井一夫社長体制下のソニーだという。「役員の入れ替えなどの人事政策を通じて現在は『ソニーとはどういう価値を提供する会社か』についてのビジョンが徐々に社内で共有され、業績回復の一助になったのではないか」と入山准教授はみる。「信長は光秀と十分なコミュニケーションを取っていたのかは疑問が残る」。織田軍団中、光秀軍は信長の出身地である尾張人がいない特殊な編成だった。「尾張出身者が家臣にいなかったことが謀反成功の要因のひとつ」(和田氏)。ヨコのつながりが薄く情報が事前に漏れることはなかったからだ。約300年後の「桜田門外の変」では、大老の井伊直弼へは襲撃情報が前日までに届けられていたという。しかし信長にクーデターの動きが知らされることはなかった。急激な家臣団の成長で信長の目が行き届かなかった可能性は残る。

「裏切られ体質」のイノベーター

 金子拓准教授は信長の「裏切られ体質」を分析している。武田信玄、上杉謙信、毛利輝元らライバルの戦国大名とは当初は友好な関係だった。配下でも、光秀と同じく実力主義で登用した松永久秀、荒木村重らに結局は反逆されている。金子准教授は信長のパターンとして(1)まず相手側から同盟破約、離反(2)裏切られた理由が分からず最初は修復しようと説得を試みる(3)最後に大激怒、報復――で共通しているという。入山准教授はその点に「イノベーターとしての宿命」をみるという。信長が「楽市・楽座」や天守閣建築などを一貫して大規模に行い、流通経済の展開やインフラ産業の発展などを促した類いまれなイノベーターであったことは間違いない。一方、自らの計画に熱中するあまり相手の気持ちが理解できない革新者たちのケースは現代にも少なくない。

 「信長はなぜ京都に城を構えなかったか」(「城から見た信長」、ナカニシヤ出版)を分析したのが河内将芳・奈良大教授だ。安土城ほどでなくとも京都に城塞があればクーデター計画は最初から無かっただろう。河内教授は「城を構えるほど警戒する必要のない場所と信長が認識していたからだ」と言う。京都以外では信長は多くの将兵に囲まれていたか堅固な城郭の中にいた。「信長は京都でしか死ぬことは考えられなかった」(河内教授)。一方、秀吉は聚楽第、家康は二条城という大規模な城郭を京都に築いている。「信長のようなあやまちを繰り返さないようにと後継者たちは考えたのだろう」としている。(松本治人)

キーワード:経営、管理職、企画、人事、人材、経営層

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