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ドヤ街に垣間見る、近代資本主義の「次」

松下博宣氏

「あしたのジョー」の舞台となった東京・山谷のドヤ街(簡易宿所街)には、「単身、高齢、低所得、公的ケアからの排除」となった人々が集まっている。老後難民が着実に増えている現代日本の負の縮図であり、山谷には日本に普遍する問題が凝集されている。そんな街で民間のケアサービスが堅実な経営のもと、弱者が切り捨てられることのない地域づくりを試みている。あしたのジョーのごとく、皆が「あしたはきっと何かある」と思える社会は生まれるか。そこに、近代資本主義の「次」を予感させる萌芽がある。

山谷という街

<b>山谷のいろは会商店街のアーケードにかかる垂れ幕</b><br>「あしたのジョー」の舞台はこの山谷の街だった。 山谷のいろは会商店街のアーケードにかかる垂れ幕
「あしたのジョー」の舞台はこの山谷の街だった。

 「山谷(さんや)」と呼ばれていた街(東京・台東区の北東に位置する地域)に足を踏み入れたのは、陽がだいぶ傾き夕刻が差し迫る午後4時過ぎだった。

 江戸時代、ここ山谷の近くには小塚原刑場があった。近くを流れる思川(おもいがわ)は、今はもう地下河川になっていて、その川面を見ることはできない。思川に架かっていた泪橋(なみだばし)は、明治通りの交差点の名前として記憶を残すのみである。その昔、小塚原刑場で処刑される罪人と見送る身内の人々が、今生の別れを悲しみ、泣きながら泪橋を渡った、などといわれている。

 山谷は、明治時代以降いったんは木賃宿(低料金の旅籠)街となったが、関東大震災の直後には、被災した人々が住む場所を求めて大量に住みつくようになった。その後、第2次世界大戦中に、空襲によってあたりは焼け野原になった。

 終戦を迎えた昭和20年ごろから上野界隈の住所不定者たちが移り住むようになり、やがて、日雇労働市場やドヤ街(簡易宿所街)が形成されていった。

 昭和40年代、住居表示制度によって山谷という地名、住所はなくなったが、今でもあたり一帯は「山谷のドヤ街」と呼ばれている。そして、泪橋の南側にあるアーケード街のそこかしこには、ブルーシートを敷いた路上生活者が、所在なく座っている。

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