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幕末の"再建の神様" 山田方谷

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「命に代えても!」、不惜身命の藩政改革を決意

皆木和義氏

 幕末の"再建の神様" 山田方谷(1805~1877年)は、財政破綻寸前の備中松山藩を見事な手法で立て直した名財政家である。本コラムでは、この成功の秘密を、彼の改革手法のみならず、全人格、全人間力に光を照射しながら解明していく。

 新藩主・板倉勝静(かつきよ)は、1849年(嘉永2年)12月9日、方谷を江戸藩邸に呼び出し「備中松山藩の元締役(勘定奉行)兼吟味役をせよ」と厳命した。嫉妬や疑念の逆風が吹きすさぶ中、命に従う決意をした方谷は、保守的な藩老や借金10万両(現在の貨幣価値で約300億円)の債権者(大坂の豪商)らと対峙しなければならなかった。

方谷、元締役抜擢を必死の辞退

 「これは大変なことになった」――。江戸藩邸で勝静から元締役兼帯吟味役をいきなり命じられた方谷は呻くような声を上げた。2つの職への同時抜擢は、いわば藩の財務大臣兼副大臣として、備中松山藩の「行政の財政権限」を一手に担う立場である。想像するだけでも、身震いがした。冬の寒さの中にいても、体中に冷や汗と脂汗がにじみ出てくるような気がした。

 「さすがに、この職だけは・・・」。方谷は天を仰いだ。

 何としても元締役を断らなければならない。方谷はあらゆる考えをめぐらせて、勝静が翻意してくれるように辞退を申し出た。方谷は必死だった。「それに、私はもう年だ。後進に道を譲って隠居しなければならない・・・」。

 その後すぐ、備中松山にいる親しい塩田仁兵衛に江戸から手紙を書いて、藩の家老たちに元締役を辞退させてくれるように頼み込んだ。世臣(代々の家臣)でもない者が、このような枢要のポストに就いたら大変な逆風が吹く。反感・反発、やっかみ、嫉妬も尋常ならざるものがある。

<b>冬景色の備中松山城</b> 冬景色の備中松山城

 あまりにも抵抗勢力が大き過ぎる・・・。方谷もさすがに尻込みした。

 この季節、標高430メートルの小松山に立つ冬景色の備中松山城は、大松山から見ると、雲がかかっているときなどは、雲海に浮かぶ天空の城のように浪漫を誘う。だが、世臣たちからの冷たい仕打ちを想像すると、その時の方谷には雪に閉ざされた厳冬の城に思えたに違いない。

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