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幕末の"再建の神様" 山田方谷

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次代藩主は"救国の駿才"、その後継者育成に己を尽くす

皆木和義氏

 幕末の"再建の神様" 山田方谷(1805~1877年)は、財政破綻寸前の備中松山藩を見事な手法で立て直した名財政家である。本コラムでは、この成功の秘密を、彼の改革手法のみならず、全人格、全人間力に光を照射しながら解明していく。

 世に打ちこわしや百姓一揆が頻発し、日本近海に西欧列強の影がちらつく中、1842年6月、備中松山藩は大きな節目を迎えた。藩主・板倉勝職に世継ぎとして勝静(かつきよ)を婿養子としたのだ。松平定信の孫であり、徳川吉宗の玄孫(やしゃご)にあたる。学問の侍講を命ぜられた方谷が「君は民のためにある」と話せば、勝静は深く頷き、「我が意である」と即答。"救国の駿才"と刮目(かつもく)した方谷は、新しい時代を予感した。

 1837年の元旦、山田方谷は、藩校・有終館の学頭(校長)として2年目を迎えた。

<b>孔子を祭っている湯島聖堂(昌平黌)の大成殿</b> 孔子を祭っている湯島聖堂(昌平黌)の大成殿

 新年にあたり、佐藤一斎から贈られた「盡己(じんき、己を尽くすの意)」の書をしみじみと眺め、師の心と対峙していたに違いない。早朝の冷気の中、方谷の心は清澄に研ぎ澄まされ、江戸・昌平坂の湯島聖堂での日々を思い浮かべたのではないか。

 このころ方谷が考えていたのは、藩士の子弟の教育を通じ、自分のあらん限りの誠をもって、大恩ある藩主のために、備中松山藩のために尽くすことである。藩の財政は多難な時にあるが、微力ながら全力で尽くす覚悟だった。

己を尽くし藩の国宝をつくる

 伝教大師・最澄の言葉に「一隅を照らす 此れ即ち国宝なり」というものがある。「天台法華宗年分学生式」(いわゆる「山家学生式」)に出典のある言葉だ。

 「山家学生式」は、最澄が日本の天台宗を開くに際し、人々を幸福へと導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいと情熱を込めて執筆したという。一隅(いちぐう)とは、今、自分(あるいは、あなた)がいる、その場所そのもののことである。だから、「一隅を照らす」とは、自分が、自分の置かれている場所や立場で、その場所・立場を、あらん限りの誠を尽くして照らすということだ。自分が光れば、自分の周囲も光る。ひいては、村も町も国(藩)も光る、という意である。だからこそ、「盡己照隅」が大切なのだ。

 方谷自身も同じことを考えていた。備中松山藩で国宝的人材をつくるのだ。そうだ、1人でも多く国宝の人材をつくるのだ。それが、藩主勝職侯(かつつねこう)へのご恩返しだと。

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