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幕末の"再建の神様" 山田方谷

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「誠を尽くすは天の道」、死を見つめ成長した方谷の確信

皆木和義氏

 幕末の"再建の神様" 山田方谷(1805~1877年)は、財政破綻寸前の備中松山藩を見事な手法で立て直した名財政家である。本コラムでは、この成功の秘密を、彼の改革手法のみならず、全人格、全人間力に光を照射しながら解明していく。

 3度目の遊学(京都と江戸)は5年以上に及び、その間に恩師・丸川松陰と愛娘・瑳奇(さき)が他界し、方谷自身も大病を患って死の淵を彷徨った。病を治した後、方谷は身も心も不思議なほど強靭に生まれ変わった自分自身を発見したという。死を見つめ、ひと回りもふた回りも成長した方谷は、ついに儒学・陽明学の真髄をつかみ、「至誠の実践こそがわが学問の道である」との確信を得た。

 1830年(天保元年)6月、山田方谷は城下の本丁に屋敷を拝領した。前年末に藩校・有終館の会頭(教頭的立場)となった方谷にとって、両親の悲願、方谷の人生の目的であるお家再興がかなったことに続いて、大きな喜びだったに違いない。

 しかし、方谷は恵まれた立場にいながら、なぜか納得感、満足感がなかった。換言すれば、明確にはまだ見えてはいないが、自分の求める理想像ともいうべき何かと比べ、「まだまだの自分」を感じていたのだろう。

高梁市郷土資料館前に建てられた山田方谷像 高梁市郷土資料館前に建てられた山田方谷像

 方谷は学頭(校長)の奥田楽山に「さらなる遊学」を相談した。

 楽山は方谷に一途な真剣さを感じ、寛大な態度で許してくれた。「会頭になって1年過ぎるまで待て。それゆえ、この12月にはそう取り計らおう。約束せよ、日本一の教育者を目指すのだ。単なる儒学者、朱子学者ではないぞ。藩侯(藩主)にはわしがよしなに伝えておく」とまで言ってくれた。

 方谷は楽山の好意に心の底から感謝した。方谷は楽山の「日本一の教育者」という言葉が心に強く響いた。

 この年の12月、3度目の遊学のために有終館会頭を辞めたが、目録と銀三両を拝領した。

大失態を起こし謹慎

 ところが、あろうことか、3度目の遊学を京都と決め、準備をしている最中に、大失態を起こしてしまった。1831年2月10日、方谷が郷里の西方村に帰った留守中、藩主から賜った本丁の家が火事で焼失してしまった。今まで集めた書籍を含め、家財ことごとくを失った。さらには、近くにあった藩校有終館も類焼してしまった。

 方谷の妻が夫を遊学させまいとして火を付けた、という噂まで流れてしまった。確かに方谷の妻は2度目の遊学に反対し、3度目もそれ以上に反対していた。

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