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幕末の"再建の神様" 山田方谷

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わずか8年の藩政改革で600億円相当を生み出す

皆木和義氏

 皆さんは「山田方谷(やまだほうこく)」という名前をご存じだろうか。冠、肩書き的にいうと、山田方谷(1805~1877年)は、幕末期に財政破綻寸前の備中松山藩5万石(現在の岡山県高梁市など)を立て直した漢学者・陽明学者であり、名財政家であり、卓越した政治家である。

山田方谷

 また、偉大な哲学者であり、思想家であり、教育者でもある。このほかにも、方谷にはもっとたくさんの冠を付けられるだろう。

 明治に入ってからは、薩長閥の重鎮で元勲の大久保利通、木戸孝允などから新政府の要職への就任要請があったが、方谷は固辞。そのため、明治初期の中央政界での活躍がなく、現代においてはそれほど有名な人物ではないだろう。

 だが、当時は名財政家として、また学者として、方谷の高名は日本中に鳴り響いていた。その意味で、歴史の大河の中に飲み込まれて消えた、知る人ぞ知る人物といえようか。

上杉鷹山を上回る改革手腕

 方谷の人生の転機は、隠居の時機を考えていた数えの45歳のときに起こった。人生50年といわれた時代である。学者・方谷から藩の元締役(いわゆる勘定奉行。藩の財務大臣的地位)という要職への抜擢である。

 ただ、その学者の方谷が行った藩政改革は、実は著名な米沢藩15万石の藩主・上杉鷹山をしのぐ見事な改革だった。

 現在、上杉鷹山が有名になっているのは、第35代アメリカ合衆国大統領であるジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本人」と述べたことが発端のようである。それは「代表的日本人」(内村鑑三著)の英訳版をケネディが読んだからではないかといわれている。

 その鷹山の藩政改革は、明和4年(1767年)に始まり、文政6年(1823年)に一応の完成を見た。鷹山・治広・斉定の3代にわたる約60年間で、借金20万両を返済し、余剰金5000両を作ったといわれている。

 20万両というのは、現在に換算すれば600億円前後であろうか。現在の何を比較対象にするかによって、計算は色々変わるのであるが、約1200億円という考え方もある。

 他方、山田方谷である。方谷は、元々は農民出身だったが、抜擢されて5万石の藩の元締役として、嘉永2年(1849年)に藩政改革、財政改革を始め、安政4年(1857年)に完成を見た。方谷は改革の8年間で、借金10万両(約300億円)を返済し、余剰金10万両を作ったのである。大変な力量と言わざるをえない。

 なぜ、こんな短期間に成功できたのであろうか。

 それも、藩主でも家老でもない元締役という立場で、しかも農民出身である。当時の士農工商の厳しい身分制度を考えると、通常ではあり得ないことを成し遂げた。

 この成功の秘密を、彼の改革手法や経営手法のみならず、全人格、全人間力に光を照射しながら、本連載の大きな柱として解明してゆきたい。

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