日本経済新聞 関連サイト

天下人たちのマネジメント術

記事一覧

西郷隆盛 弱点はストレス・人事下手

嫌った大隈重信、信頼した山県有朋

西南戦争までの新政権の苦悩を描いた「『絶体絶命』の明治維新」(PHP新書) 西南戦争までの新政権の苦悩を描いた「『絶体絶命』の明治維新」(PHP新書)

 幕末における西郷の活躍時期は案外長くない。島津斉彬に抜てきされた1854~58年(安政元~5年)と2度の遠島処分を受けた後の64年(元治元年)以降だ。家近教授は「人脈的に西郷と一番つながっていたのは水戸藩関係者だっただろう」と指摘する。しかし同藩の人材の多くは明治維新を見ずに亡くなっていた。

 西郷は多くの薩摩藩士を、新設の近衛兵や巡査(ポリス)として登用した。ただ廃藩置県後の再就職先あっせんの意味合いが強い。西郷人事のヒットは「村田新八らを送り込んだ宮中改革くらい」と家近教授。しかしこれも旧勢力の抵抗にあって女官を大量罷免せざるを得ないなど、スムーズには進まなかった。

 「名も命も要らない」と達観していた西郷だが、部下に慕われるのを好む一面はあったようだ。組織の人事は、喜ぶ人間より失望する人間の方が多いとされる。まして自分に懐いている部下に、西郷は厳しい人事は下せなかったのかもしれない。大変革の最中だった明治のリーダーとしては大きな弱点だろう。西郷は部下たちに仕事を任せ、もともと無口な性格が一層口出ししないようになっていった。

 新政府の中で、西郷は参議の大隈重信と大蔵大輔の井上馨を嫌った。現実主義・出世主義で豪華な私生活とカネの噂のある人物を私利私欲があると見なした。井上に対しては三井財閥との関係が深いことから「三井の番頭どん」とからかったという。これなど現代の感覚からはパワハラに近い。大隈の方は反発して、西郷を英傑とも豪傑とも思えないとこきおろした。

 逆に西郷が信頼したのが山県有朋だ。後年の軍閥の巨魁(きょかい)と、ロマンチックな心情の大革命家との友情は一見奇異に映るが、「山県有朋 愚直な権力者の生涯」(文春新書)を著した伊藤之雄・京大教授は「西郷が信頼した唯一の長州藩士は山県だった」としている。幕末期に山県は西郷に心酔し、西郷もすぐ打ち解けた。維新後も軍制改革に取り組む山県の姿勢を、真面目人間の西郷が認めたのだろう。

 家近教授は「一命を捨てても良いという気持ちが当時の山県には常にあり、同じ心境の西郷に通じた」とみる。奇兵隊の出身だった山県は幕末、高杉晋作の下で何度も絶望的な戦場に臨まざるを得なかった。その体験が身に付いていた。同じ長州出身でも、西郷は木戸孝允の力量を認めつつも、心情的にはどこかギクシャクした関係が最後まで続いたという。木戸は「逃げの小五郎」の異名を取り、大局的に不利な場面ではすぐ身をかわす政治テクニックの名人だった。

 「岩倉使節団(71~73年)」の外遊中に、西郷をトップとする留守政府は学制、徴兵制、地租改正という「明治の3大改革」を達成した。しかし西郷が強力なリーダーシップを発揮した形跡はみられないと、家近教授は言う。岩倉具視、木戸、大久保の首脳が外遊中に、大隈、山県、井上ら「維新第2世代」は頭上の重石が取れたかのように改革政策の実現に励んだ。現代企業ででの同期競争にも似た、新世代の功名争いが始まっていたのだ。


PICKUP[PR]