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西郷隆盛 弱点はストレス・人事下手

「西郷の推薦してきた人物は役に立たない」

安藤優一郎氏は「西郷は久光の憎悪にひらすた耐えなければならなかった」と語る 安藤優一郎氏は「西郷は久光の憎悪にひらすた耐えなければならなかった」と語る

 西郷は「もともと極めて真面目で神経が細かく、気配り型の性格」(家近教授)だという。倒幕軍を率いた際も臨時雇いの「車夫」の手当や軍馬への食糧供給まで、部下へこまごまと指示していたという。戊辰戦争(68~69年)の最中なのに、江戸城明け渡しが済むと新政権は大久保利通らに任せ、さっさと西郷が帰郷したこともあった。それも一種の気配りからだという。家近教授は「薩摩藩出身者が突出するのを避けた」とみる。同藩の政治、軍事的な存在感は当時圧倒的に大きく、味方の朝廷や長州藩からさえ「島津幕府」の野心を疑われていたからだ。安藤氏は「江戸無血開城の条件が寛大過ぎると西郷へ反発する声も朝廷の一部から出ていた」と指摘する。細やかな神経の西郷は、味方からの批判に嫌気が差したのかもしれない。

 1872(明治5年)年に西郷は久光をなだめる狙いもあって、明治天皇の鹿児島行幸を実現させた。しかし天皇の洋装姿と自分の所にあいさつに訪れなかった西郷に失望し、かえって久光は怒りを増幅させた。明治政府に開化政策を非難する「十四カ条の建白書」を提出した。西郷は受け入れることも、旧主の意見をむげに却下することもできない状況に追い込まれた。その当時の心境を手紙にして、岩倉使節団の一員としてロンドン滞在中だった大久保に西郷は「大よわり」と送った。西郷はいったん明治政府を放り出して、久光をなだめるため帰郷しなければならなかった。それでも翌年に建白書の採用を求めて久光は上京し、髷(まげ)を結い、腰に二本差しを帯刀した藩士を数百人同行させたという。

 しかし久光ばかりを責められない事情もあった。怒った原因には西郷の人事の拙速さもあったようだ。西郷とともに戊辰戦争で功績を挙げて鹿児島へ凱旋した下級藩士らは69年、門閥の打破・人材登用を求めて久光の実弟や側近を家老など要職から一掃させた。その代わりに藩政トップに就いたのが西郷だ。これでは久光と西郷の関係は険悪にならざるを得ない。もし西郷に優れた人事感覚があったならば、上層部に久光派の何人かを残してバランスを取っただろう。

 家近教授は「中央政府でも人事は案外下手だった」と言う。71年(同4年)に津田出を抜てきした。津田は紀州藩で「四民平等」による徴兵制をいち早く実現させた手腕の持ち主だった。西郷は津田を新政府トップに据えて、自分を含めた皆が従うべきだと公言するほど惚(ほ)れ込んだ。しかし金銭的に問題のある人物と知るや、数カ月で絶縁した。「西郷は津田推薦をざんげする手紙も書いた」(家近教授)。大隈重信も、西郷はさまざまな人を推薦してきたが、いずれもあまり役に立たなかったと回想している。

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