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天下人たちのマネジメント術

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家康も悩んだ「後継者」と「完全引退」

ずるずる延びた完全引退のタイミング

 戦後処理を考えれば、味方でありながらも野心家の伊達政宗にどこかで大勝利を得させるわけにもいかなかった。複雑な東北情勢を制御するためには秀吉の養子・家康の実子という家格に加えて将才に優れた秀康を置くのがベストだったのだろう。戦後、秀康は下総結城10万石から越前北庄68万石に移封されている。58万石の加増は関ケ原の論功行賞で最大だ。ただ7年後に急逝してしまった。生まれた時期がずれていれば天下人として史上に名を残したかもしれない。作家の司馬遼太郎は秀康を「劇的性格をもちながら、その生涯はなんの劇的要素をもたず、何事もおこさず、またおこりもしなかった」と惜しんだ。松平忠吉も10万石から清洲52万石へ大幅加増されたが、やはり早くに亡くなった。

 1603年(慶長8年)に将軍に就任した家康は2年後にすぐ秀忠に譲り、07年には駿府に移った。しかし引退では無かった。家康個人が天下人であったため、「徳川家」を天下人の家とすべく代替わりしたに過ぎない。柴裕之氏は「有力グループ企業のトップが会長として財界活動に専念することで、出身企業がその後の経済界を主導していくことを固めたようなもの」と指摘する。家康が武家の最高権力者を意味する「源氏長者」の地位は保持して全国的な問題を指導し、秀忠は徳川家の総領というすみ分けだった。

 具体的な引退を意識し始めたのは、11年(同16年)の後水尾天皇の即位後かららしい。「豊臣家滅亡まで現役で張り切っていたという見方は後世から判断した解釈」(柴氏)だという。徳川氏の優位を確認できたころから、秀忠に天下人としての立場を少しずつだが任せていく状況にあったようだ。ただ大阪冬の陣、夏の陣が引退をさらに伸ばした。

 ようやく家康が本格的に隠居場所を探し始めたのは1615年(元和元年)。最初は静岡県三島市近くの「泉頭」を気に入り決めたが、家臣団の反対などもあって駿府城内に変更した。翌16年に予定されていた孫の家光(3代将軍)の元服式を見届けてから全面引退する心つもりだったようだ。しかしその直前に食中毒にかかり再起できなかった。本当の死因としては胃がんの可能性が高いという。

 家康の父・広忠も祖父・清康も謀殺などで20代半ばに死去している。祖先が経験できなかった引退生活の日々が来るのを家康は指折り数えて待っていたはずだ。しかしずるずる先延ばししていくうちにタイミングを失った。駿府城内の最期の病床で「どこかですっぱり決断しておけば」と悔やんでいたかもしれない。

(松本治人)

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