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家康も悩んだ「後継者」と「完全引退」

深刻な影響を与えた「信康切腹事件」

笠谷名誉教授の「徳川家康」は家康研究の基本書だ(ミネルヴァ書房) 笠谷名誉教授の「徳川家康」は家康研究の基本書だ(ミネルヴァ書房)

 「信康事件」は79年(天正7年)に信長が自らの女婿にあたる信康の処分を家康に要求し、彼我の力関係から対抗し得ない家康がやむなく切腹させたという事件だ。その理由として、信康が領民を理由なく殺害するなど日常の乱暴な行為が挙げられているが、笠谷氏は「信康と母親の築山殿が武田勝頼と通謀していた証拠を、信長に握られ家康が処分したというのが真相だろう」としている。家康が居城とする浜松派と信康の岡崎派に家臣団が別れており、対武田戦争の長期化に危機感を募らせていた岡崎派が信長を見限ろうとしていたという見立てだ。信康事件の3年前には、武田側に寝返ろうと画策していた岡崎城の代官を家康が刑死させている。「家臣らの陰謀に信康は巻き込まれたのだろう」(笠谷氏)としている。

 「徳川家康」(平凡社)の著者である柴裕之・東洋大非常勤講師は背景に「外交問題でのより深刻な対立があった」とみる。長篠の戦いで大打撃を被った武田家は、その後関東の北条家とも対立し、西方外交の見直しを迫られていた。徳川方が疲弊する一方、武田側にも平和攻勢をかけねばならない理由があった。外交問題を一本化すべく家康は天正7年8月に岡崎城に乗り込み、争論の翌日に信康を城外に追放。家臣団からは信康と連絡を取らないという誓約書を取った。クーデター計画を予防するかのような迅速かつ周到な処置だ。約1カ月後には早くも自害させた。

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