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天下人たちのマネジメント術

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井伊、本多...家康の大胆抜てき人事

 織田信長、豊臣秀吉が徹底した「能力主義」の人事を貫いたのに対し、徳川家康には微温的、地元の三河(愛知県東部)重視のイメージが付きまとう。実際、家康が約260年続く江戸幕府を樹立できたのは「三河武士」の貢献が大きい。隣国の人質だった家康を鉄の団結力で守り、勇猛な戦闘力と自己犠牲の精神で盛り立てていったからだ。しかし家康自身は人材を地元優先で採用してはいなかった。外部からや時には自分への反逆者も積極的に登用し、家康の天下取りに大きく貢献したのは、むしろこれら非主流の家臣たちだった。地味に見えて実は大胆だった家康の抜てき術は現代ビジネスへのヒントにもなるかもしれない。

「徳川四天王」で唯一の非三河出身者

井伊直政は徳川外交の担当者に抜てきされた(彦根市提供) 井伊直政は徳川外交の担当者に抜てきされた(彦根市提供)

 外部登用の代表格が「徳川四天王」のひとり、井伊直政(1561~1602)だ。四天王は家康の覇業を支えた徳川家臣団の象徴だが、実は4人が一緒に戦った期間はほとんどない。最年少の直政と最年長の酒井忠次は34歳、本多忠勝、榊原康政とも13歳違うため活躍の時期が微妙にずれている。何よりも直政だけが三河出身でなく(隣国の遠江出身)、しかも井伊家はかつて徳川家とライバル関係にあった今川家に属していた。井伊家自体は鎌倉時代以来続く東海地方で屈指の名家だが、4年間に3人の当主が戦死や謀殺で相次ぎ亡くなり、直政が15歳で家康に出仕した時期は没落寸前だったという。

 東海の名門ながら「政界の孤児」的存在だった直政を、家康は徳川家の外交担当者に抜てきした。元彦根城博物館学芸員の野田浩子氏は近著の「井伊直政」(戎光祥出版)で俗説や後世の創作を丹念に取り除き、史実に基づいた等身大の直政像を描き出した。野田氏によると直政の外交デビューは1582年(天正10年)、関東一円を支配する北条家との休戦協定だったという。本能寺の変の影響は東国にも及んでいた。交渉役はナンバー2の重臣を当てるのが定石のところ、あえて弱冠22歳の近習に担当させた。

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