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毛沢東、30代に受けた6回の「左遷」

 24日に閉幕する中国共産党全国代表会で「一強」体制構築を進める習近平・国家主席と、その権力モデルとされる毛沢東・共産党主席(1893~1976)とに、中国トップに上りつめる過程での共通点を指摘する声もある。両者とも党エリートの主流とは当初見なされておらず、北京や上海で活躍するより地方活動が長かった。しかし30代の習主席が福建省で順調に地方幹部のキャリアを積んでいったのに対し、毛主席は同じ年齢の頃に左遷、降格、病気休職など6回の挫折を味わった。その経緯を追った。

若い時には「心の不調」、失敗が新たな戦略生む

共産党大会で習近平主席(中央)が目指すのは毛沢東流の「一強」体制だという(北京市) 共産党大会で習近平主席(中央)が目指すのは毛沢東流の「一強」体制だという(北京市)

 1度目は24年から25年にかけて故郷に戻っての病気療養だ。上海の本拠地を持つ共産党で中央局秘書という中枢の役職だったが、労働運動の低迷などに展望を見いだせなくなったという精神的な理由だったと伝えられている。毛沢東にも現代企業社会の若手社員と同じように、将来に期待を持てず体に変調を来すナイーブな一面があったようだ。

 続いて現代史への毛沢東のデビューとなった27年の「秋収蜂起」だが、これは散々な結果に終わった。国民党に弾圧された共産党は、中国各地の武装蜂起で反撃することになり、毛沢東は湖南省・長沙攻略を前敵委員会書記として現地で直接指導した。しかしこの作戦は裏切りなどですぐ敗北し、毛沢東は残った農民兵ら約1000人とともに湖南・江西両省の境にある井崗山へと逃れ、地元の土匪(山賊)の協力を得ながら生き残りを図らざるを得なかった。上海の指導部は毛沢東の政治局候補委員を解任し、続いて党湖南省委員会の指導職も失った。当時の毛沢東が参考にしたのはマルクスやレーニンの著作ではなく「水滸伝」などの在野の英雄が活躍する歴史小説だったという。

 ただ、少数ながらも紅軍を指揮し、井崗山で根拠地を運営した経験が、新たな革命モデルを構築することにつながった。人口の9割以上を占める農民を中心として、農村の根拠地を拡大していき都市を包囲するという中国独自の戦略だ。それまでの革命モデルは、1917年のロシアにおける11月革命しかなかった。しかし「革命機運が高潮した時期に先鋭化した都市部の労働者が蜂起し権力を奪取する」パターンは中国の実情に合わなかった。

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