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ビール「営業王」 社長たちの戦い 4人の奇しき軌跡

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サッポロ・尾賀社長「もう帰れ」店主の声で開眼

前野 雅弥

 激しい販売競争を演じるビール大手4社。現在の社長たちはいずれも「奇跡の営業マン」と呼んでいい実績をあげてきた。もちろん彼らとて、生まれつき営業の天才だったわけではない。挑戦し、失敗したら、必死に考え、またトライして失敗する。それでもくじけずまた挑戦し、最後は社長にまで駆け上がった。本連載ではそんな4人の「伝説」の一端を紹介する。最終回はサッポロビールの尾賀真城社長。(本文敬称略)

「エビス」のロゴをバックに尾賀真城社長 「エビス」のロゴをバックに尾賀真城社長

今でも北区でならタクシー運転手ができる

 サッポロビールの尾賀真城社長は入社3年目に初めて営業部署に配属となった。営業現場で過ごした8年間は、会社人生の原点だという。

 「よし、ここからだ。ここからが俺の勝負になる」

 尾賀が最初に配属された総務部から、念願の営業に異動になったのは入社3年目、1984年春のことだった。配属されたのは東京支社の販売4課。城北地区(北区、板橋区など)と城西地区(新宿区、世田谷区など)を中心に営業担当する部署だ。以後の8年間、尾賀は営業現場で過ごすことになる。この8年は「自分の会社人生の原点みたいなもの」と尾賀は言う。

 8年間のうち最初の5年間は北区の担当だった。東京の真ん中の住宅密集地域で酒屋を回る。その数ざっと200軒。ビールの営業というのは、その200軒をポンと任されるのである。「まるで一国一城の主にでもなったような気分」だった。「うれしくて、うれしくて」、毎日、自分でも感心するほどよく得意先を回った。

 「どこにどんな道があって、その先にどんな店があるのか、全部わかる。今でも北区でならタクシーの運転手ができる」

 当時、サッポロビールのシェアは全国で20%近くあり、60%超のキリンビールに次いで2位につけていた。とりわけ北区は近くに埼玉工場(埼玉県川口市)があったおかげで、サッポロシンパが多かった。駆け出しの尾賀が現場を回っていても、「『サッポロ』と言えば、親切にしてもらった経験のほうが多い」。

 当時の尾賀からは、ライバルメーカーがどう見えていたのか。

 キリンビールは酒屋からの評判がいまひとつだった。「営業マンが盆と暮れにしかやってこない」。やっぱり王様だった。決して威張っているわけではないが、市場シェアがこれ以上増えれば独禁法に抵触しかねないこともあって、無理に売ろうとはしていなかった。

 その点、サントリーはウイスキーが好調だったせいだろう、お金もあって元気に見えた。営業先でサントリーの営業マンとバッティングすることもしばしばだった。「あちこちでガチャガチャやっていた」。ただ、ビール営業という点ではサントリーはまだまだ経験が浅く、「驚異を感じるほどでもなかった」。

 もっとも苦労してるように見えたのは、やはりアサヒビールだ。現社長の平野伸一も言うように、お客さんに「なかなか相手にしてもらえていなかった」。尾賀が試しに酒屋の奥さんに「アサヒビールなんかどうですか。置かないんですか」と聞いてみると、「アサヒビールねえ。置いてみてもいいけど、売れるかしらねえ......」といった調子だった。ライバルながらさすがにかわいそうだった。

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