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信長、統一への戦いを支えた新金融システム

英傑たちの経済改革(1)

永禄十二年法と旧日銀法との共通点

現在の京都市。信長の経済改革は京都を中心に実施された 現在の京都市。信長の経済改革は京都を中心に実施された

 通貨法令の内容はすべてが信長政権の独創ではなく、社会的な慣習を追認していった面も大きいという。金融政策に関しては、上から押しつけるのではなくリアリストに徹して施行していったようだ。金銀銭の比価政策は16世紀前半ころの春日大社に食糧売買価格を管理した法があったという。金1両=銀10両=銭2貫文という比率だった。銭貨政策に関しても永禄十二年法に先立つ1566年に、近江の戦国大名、浅井長政が破損銭と無文銭以外はすべて基準銭として扱うように布告していた。

 ただそれらの先行政策を大規模かつ徹底的に施行したのが信長の金融政策だった。1580年ごろになると「銭貨の等価値使用原則を定め、江戸幕府の通貨政策に直結する方針に移行していた」(高木准教授)という。慣用句「ビタ一文」の「ビタ」銭の登場だ。ビタは従来の基準銭以外を指し、破損銭など特定の低品質以外のすべてを含んだという。羽柴秀吉の弟、秀長が但馬方面に出兵した時に、信長方が宿泊所に支払う費用を「ひとりビタ5文」と定めた軍令が残っており、「ビタ」が織田軍団の基準通貨であったことをうかがわせる。

 高木准教授は「通貨に関して信長は近世を先取りしていた」という。最初は戦時の通貨政策として実施したが、平時に継承されて銭統合が達成されたというのが高木教授の見立てだ。永禄十二年法から連想させるのが旧日銀法だという。「戦時立法である旧日本銀行法の日銀券発券システムが、戦後も長く継承され高度経済成長を支えたことと現象的に重なる」(高木准教授)としている。

 1582年の「本能寺の変」後、羽柴秀吉は明智光秀を破ったすぐ後に、信長の政策を踏襲する通貨法令を京都、堺、大阪で施行した。


(松本治人)

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