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大リストラ「関ケ原」 敗者復活のノウハウ

「関ケ原」の研究(下)

高かった島津家のインテリジェンス能力

 「島津討伐」のデメリットを避けようとしただけではなく、積極的に島津を利用しようという思惑もあったとみるのが、東大史料編纂所の黒嶋敏准教授。戦国期以来の島津氏が培ってきた明や琉球や明国との外交ルートに家康が注目していたとの見立てだ。「家康が目指していたのは国内諸勢力への統制と外交による権益の確保だ」と黒嶋氏。朝鮮とのパイプをまだ保持していた対馬の宗氏も、西軍でありながら本領安堵されていた。家康が国際的な面で立場を強化するには当面、島津―琉球―明のルートは魅力的に映っただろう。

 黒嶋氏は「家康側の事情を冷静に分析していたのが島津義久だった」と卓越した外交力を評価する。畿内から遠隔地にある島津家には、中央政局の動向に疎いという先入観が入り込みやすい。しかし源頼朝以来の名門であり、公家の近衛家など京都政界とのパイプも少なくなかった。「特に義久は足利13代将軍義輝の時代から中心との交渉を手掛けてきた」と黒嶋氏は指摘する。歴代の〝天下人〟を比較評価できる経験が備わっていたわけだ。中央政権は島津氏を屈服させられても滅亡までは追い込めないと読み切って「秀吉とどう違うか、家康の出方をじっくり見極めようとしたのだろう」(黒嶋氏)。先に焦(じ)れたのは家康の方で、関ケ原から2年後に所領安堵の起請文を渡し島津問題を終結させた。念願の征夷大将軍に就任したのはその翌年だ。

 島津家には宇喜多秀家も亡命してきていた。関ケ原に関しては、石田三成と同等かそれ以上に責任が重い首謀者のひとりだ。桐野作人氏は「家康が将軍に就任するタイミングで島津は宇喜多助命を申し出た」という。絶妙のタイミングでの嘆願で秀家の命は助かり、処分は八丈島への遠島処分で終わった。鹿児島から動かない義久へ的確な情報を上げていたのは誰だったのか。栄村氏は徳川との交渉にあたった新納旅庵、本田親貞といった家臣の名を挙げる。鹿児島・仙巌園の岩川拓夫学芸員は一次史料を分析し、京都での薬売業「道正庵」が代々島津氏の京都外交を補佐していたことを明らかにした。関ケ原当時の当主、道正庵宗固は関ケ原から敗走した島津兵を一時かくまったり、家康の近習に接触したりしていたという。島津家のインテリジェンス能力の高さをうかがわせる。

 勝利者となった東軍にも実は敗者復活組が存在する。大津城で籠城した京極高次だ。秀吉の側室・竜子の兄にあたり、淀殿(秀吉側室)、江(秀忠夫人)と姉妹の常高院を正室に迎えていた。いったんは西軍に属するが離脱、大津で立花宗茂ら西軍1万5千を足止めにした。関ケ原合戦当日に開城、敗戦責任をとって高野山に入ったが、家康に呼び戻された。大津6万石から若狭9万2千石に加封されている。家康が「あと1日持ちこたえていたら40万石だった」とつぶやいたというエピソードが伝わっているが、史実ではないだろう。

(松本治人)

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