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大リストラ「関ケ原」 敗者復活のノウハウ

「関ケ原」の研究(下)

没収される前に「復活」した島津

桜島を臨む。敗者であるはずの島津家だが卓抜した外交手腕を発揮した(鹿児島市) 桜島を臨む。敗者であるはずの島津家だが卓抜した外交手腕を発揮した(鹿児島市)

 敗者復活の近道は、まずリストラされないことだろう。その意味では、関ケ原最大の復活組は薩摩(鹿児島)の島津義久・義弘兄弟になる。領土は現状維持。毛利軍は関ケ原で1発の弾丸も撃っていないのに戦後は約3分の1に減封された。一方の島津軍は敵中突破の撤退戦で徳川本軍と直接戦い、しかも「徳川四天王」の井伊直政に結果的に致命傷となる鉄砲傷を負わせた。それでも薩摩・大隅約60万石に家康は手を触れなかった。

 島津討伐を断念した真の理由ははっきりしない。「関ヶ原 島津退き口」(学研M文庫)の桐野作人氏は朝鮮の役で敵軍に恐れられた島津の軍事力の強さに注目する。関ケ原には少数しか兵を派遣せず、島津本隊はほぼ無傷で決戦にそなえることができた。「島津四兄弟」(南方新社)の栄村顕久氏は九州南端という地理的状況を指摘している。「三方を海に囲まれ攻められるのは北からだけ。国境は険しく街道も少ない」(栄村氏)という。関ケ原で戦った義弘は桜島に謹慎。長兄で実質国主の義久が「畿内における出先のメンバーが勝手に戦っただだで、本国は関わっていない」と強弁し、家康との厳しい講和交渉に当たった。福島正則、黒田如水らも積極的に調停に加わったという。

 光成準治・九州大学大学院特別研究者は、「島津問題」が当時はまだ脆弱だった家康の政治的立場を浮き彫りにしていると分析する。「関ケ原が終わった慶長5年末の段階では上杉景勝も服属しておらず、島津討伐を行おうとすると両面作戦を展開する必要があった」と指摘する。一方「関ケ原は1日で終結したが負傷した兵も多く、東軍勢力の戦意は高くなかったのが実情」と光成氏。さらに家康はまだ豊臣政権の第一人者に過ぎず、すべてを独断で決める状況にはなかった。光成氏は「福島正則や黒田如水は島津問題を自らの手で解決することで西国を統括する立場にあると家康に認めさせたかったのだろう」としている。

 栄村氏は「島津を攻めるならば九州の黒田如水らにその任を当てなければならず、危険性も大きいと家康は認識した」と語る。戦後の九州における黒田や加藤清正の存在感が巨大なものになるからだ。逆に島津と通じる恐れすら皆無ではなかった。徳川側で島津問題を担当し平和的な解決を目指していたのは井伊直政や本多正信らだった。家康の側近中の側近で、いわば外相と官房長官。家康の心中を推し量れる立場にある。家康自身に最初から島津討伐の意志が薄かったという見方もできそうだ。

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