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大リストラ「関ケ原」 敗者復活のノウハウ

「関ケ原」の研究(下)

まず人脈の深さ、さらに「一芸」の才能が重要

復活のためのポイントは家康との交流の深さ(愛知県岡崎市) 復活のためのポイントは家康との交流の深さ(愛知県岡崎市)

 いわばライバル企業が優秀な人材が獲得するのを阻止する狙いも含んでいたようだ。その後の「大阪の陣」では関ケ原非復活組の真田幸村や長宗我部盛親らが奮戦した。一方の宗茂は徳川方で活躍した。「軍師」までではないにしろ、戦功の少ない秀忠にとってうってつけの相談相手だっただろう。

 さらに「牢人時代の経験から人間性が錬磨され、人としての幅が広がった」と中野氏は言う。不遇の境遇にあっても時間を無駄にせず、弓道の免許を得たり禅の修行にも励んだりしたという。連歌、茶道、蹴鞠(けまり)にも熟達した。勇将としての名声だけでなく文化人としての一面が、自分より若い世代にあたる幕閣らの尊敬・好意を勝ち取ったようだ。晩年は「譜代並み」の扱いだった。その代わり76歳で死去するまで事実上の「生涯現役」を余儀なくされた。「島原の乱」には71歳で参陣した。隠居後もしばしば江戸城の家光へ伺候したという。

 徹底抗戦しても大名に戻ることのできた宗茂は、関ケ原復活組ではむしろ例外。原則的には家康・秀忠との交流の深さや親近感、実力者との人脈の広さがカムバックの決め手になったようだ。東軍に味方しようとしたものの周囲の大名全部が西軍であったため、仕方なく西軍に属した新床直頼の復活のケースがそれに当たる。さらに「一芸」を持っているとよりスムーズに復権は進んだ。織田信長、信雄、秀吉に仕えた滝川雄利は外交官としての能力に優れ、戦後早い時期に許されて常陸片野2万石の初代藩主となった。

 織田信長の女婿だった丹羽長重は人脈、武将としての力量に加え築城技術の高さも評価されたようだ。父は安土城築城の責任者だった丹羽長秀。秀重・雄利も秀忠のアドバイザー役「御伽衆」を務めた。ユニークなのは上田重安。蜂須賀家の客将を経て、浅野家で1万7千石の家老として復活した。優秀な武人であっただけではなく造園家・茶人としても一流で、今日まで続く「上田宗箇流」の流祖だ。茶道では千利休―古田織部―上田宗箇という師弟の系譜になるが、この流派は単に師匠の流儀を順守することなく、おのおのがオリジナルな一派を立てることに特徴があるという。

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