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大リストラ「関ケ原」 敗者復活のノウハウ

「関ケ原」の研究(下)

 「関ケ原」の戦後処理は苛烈を極めた。敗れた西軍の石田三成、大谷吉継、真田昌幸ら主なだけでも50人を超える大名が領地を没収され、大幅減封も合わせ日本列島の約3分の1が真空化した。合戦当日に裏切り、徳川家康の勝利に貢献しても、事前に内応しなかったという理由で2大名が改易された。西軍総大将・毛利輝元との「領地を安堵する」という不戦協定もすぐ反古(ほご)になった。その一方でわずかながら後に大名まで復活できた武将たちがいた。敗者復活戦の軌跡を追った。

立花宗茂、優れた専門性に高い評価

日本史上最大のリストラ劇でもあった「関ケ原合戦」 日本史上最大のリストラ劇でもあった「関ケ原合戦」

 「家康に運を感じるのは、西軍屈指の猛将である立花宗茂が参戦できなかったこと。あと半日あればやる気満々の宗茂は戦えた」――。国際日本文化研究センターの笠谷和比古・名誉教授はこう指摘する。戦後に九州・筑後柳川13万石を没収された立花宗茂は大津城攻めのため、関ケ原合戦にギリギリ間に合わなかった。家康が直接戦場の指揮を取るのは「小牧・長久手の戦い」以来実質16年ぶり。対して立花軍は「朝鮮の役」など直近の戦闘経験が最も豊富な軍だから、ひょっとして歴史が変わっていた可能性もある。ただ宗茂はその後も大阪に戻って籠城を主張、毛利輝元に拒否されるや帰郷し加藤清正、黒田如水ら圧倒的な九州東軍と戦った。柳川城を開城したのは「関ケ原」から約1カ月半後で、最後まで戦ったのだから所領没収はむしろ当然だろう。

 その宗茂は牢人生活6年後の1606年に(慶長11年)奥州棚倉1万石の大名として復活した。さらに約3万石に加増され、1621年に郷里で柳川約11万石に移封された。約20年かけて原状回復に成功した格好だ。2代将軍秀忠、3代家光のアドバイザー的な役割だった

 宗茂が復帰できた理由は何よりも「不敗の武将」だったからだ。「立花宗茂」(吉川弘文館)の中野等・九州大教授は「優れた軍事的専門性が高く評価された」と分析する。宗茂はもともとは大友宗麟配下の武将で豊臣直系ではない。若いころから優秀な指揮官として奮戦し、日本最強ともされた島津軍を破り、朝鮮の「碧蹄館の戦い」などで快勝していた。戦国期の美学から旧恩よりまず目の前の主君に忠節を尽くすタイプの武将でもあった。当時はまだ豊臣秀頼が健在。中野教授は「大阪方に優秀な指揮官を奪われてはいけないとの思惑もあったかも」とみる。

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