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秀吉、家康、政宗が直面した大地震

 9月1日は関東大震災が発生した「防災の日」。一方、「本能寺の変」以後の天正後期から徳川幕府が成立した慶長年間までも、日本列島が多くの地震に見まわわれた時期だった。全国統一を巡って豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗らは互いにしのぎを削り合いながら、災害対応や復興策にも取り組んでいかなければならなかった。その軌跡を追った。

長浜城の液状化、家康征伐の中止

戦術の天才、豊臣秀吉も地震に振り回された(大阪市) 戦術の天才、豊臣秀吉も地震に振り回された(大阪市)

 1586年(天正13年)1月に列島の中央部を襲った「天正大地震」はマグニチュード(M)8クラス、最大震度6だったとされる。富山県高岡市の木船城は陥没して城主・前田秀継(利家の弟)が死亡し、岐阜県白川村の帰雲城も城下もろとも埋没。このため城主一族が滅亡するなど被害は中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。

 最大の被害者は天下統一に半分王手をかけていた秀吉だった。長らく居城としてきた琵琶湖畔の長浜城が液状化し、当時の城主・山内一豊の娘が犠牲となった。宣教師ルイス・フロイスの記録ではこのとき大津市に滞在していた秀吉は当面の計画を全て中止し、最も安全とみられた大阪城へ一目散に避難したという。

 国際日本文化研究センターの磯田道史・准教授は「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)で、「近世日本の政治構造を決めた潮目の大地震」だったと指摘している。この地震がなければ、家康が2カ月後に秀吉の大軍から総攻撃を受けるはずだったとしている。84年の「小牧・長久手の戦い」では勝った家康だが、その後の秀吉は紀州や四国など版図を飛躍的に拡大し彼我の軍事力には大きな差がついていた。徳川家の実質ナンバー2だった石川数正も秀吉側に転じており、秀吉は家康征伐を公言。戦争に突入すればその後の北条氏のように、家康には滅亡の可能性すらあっただろう。

 ところが震災で前線基地の大垣城が全壊焼失、同盟軍の織田信雄の長島城も倒壊したという。秀吉軍を展開させるはずの美濃・尾張・伊勢地方の被害が大きく、戦争準備どころではなくなっていた。家康側も岡崎城が被災していたが、領国内は震度4以下だったという。秀吉は家康征伐を中止して和解路線に転じ、家康は豊臣政権ナンバー2の座を確保し将来に備えることができた。


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