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徳川家康、「関ケ原」は戦いたくなかった?

「関ケ原」の研究(上)

 日本で一番知られている合戦は、天下分け目の戦いとされた「関ケ原合戦」だろう。戦後は全国の3分の1を超える約630万石が没収されるという日本史上最大のリストラ劇でもあった。徳川家康率いる東軍と石田三成の西軍が関ケ原(岐阜県関ケ原町)で戦い、勝利した家康は約260年続く江戸幕府を開いた。両軍合わせて約16万人が激突したこの一戦は、天下取りを狙う家康が反対勢力を誘引して引き起こし、ほぼもくろみ通りに一気に決着を付けたとの評価が一般的だ。しかし最新の研究では、家康が望んだような展開とはかけ離れた不本意な戦いであったことが指摘されている。「関ケ原」における家康の計算と誤算を検証した。

より安全に政権奪取できる道を

徳川家康にとって関ケ原の戦いは不本意だったのか(静岡市) 徳川家康にとって関ケ原の戦いは不本意だったのか(静岡市)

 「関ケ原合戦のような大会戦を家康は望んでいなかっただろう」――。国学院大の堀越祐一講師は「家康は既に実権を握っており、より安全に政権を奪取する道があったはずだ」と分析する。それまでの権力闘争に圧勝し政略が順調に進んでいたからだ。家康は1598年8月に豊臣秀吉が死去した直後から多数派工作を始めたという。伊達、福島ら地方有力大名との婚姻政策だ。秀吉が生前に決めた「五大老」(家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)と「五奉行」(三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政)による集団指導体制は早い時期から形骸化していった。「毛利輝元」(ミネルヴァ書房)を刊行した九州大学大学院の光成準治・特別研究者は、秀吉死去から10日後に三成ら奉行4人(浅野を除く)と大老の毛利が「起請文(きしょうもん)」を作成して同盟した点を指摘する。「仮想敵」はもちろん、大老筆頭の家康だった。

 「秀吉死後の権力闘争と関ケ原前夜」(日本史史料研究会)の著者、水野伍貴氏は、99年閏(うるう)3月の「石田三成襲撃事件」を家康派らによる「事実上のクーデター」と位置づける。三成は加藤清正、福島正則ら7将に狙われただけではない。拠点としていた大阪城も片桐且元ら「隠れ家康派」に占拠され三成派は入城できなくなっていた。これまでは家康が公正な第三者として対立を調停したとされてきたが、実は清正ら7将は家康の統制下にあったという。家康と三成派の毛利、上杉らとの間で和睦がまとまり、三成は引退を余儀なくされた。秀吉死去からわずか約半年後だ。

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