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後継者選び、秀吉の計算と誤算

 「豊臣政権の権力構造」(吉川弘文館)の堀越祐一・国学院大講師は「秀吉は信長のマネばかりしていたと見られがちだが、実は戦場のみならず組織作りでも大変なアイデアマンだった」と評価する。「朝廷は秀吉に権威を与え、秀吉は朝廷を経済的に支えた」(堀越氏)。秀吉の関白就任は1585年で、90年に北条氏を滅ぼして天下を統一した。91年に甥(おい)の秀次に関白職を譲り、元号も天正から文禄に改元して新時代をアピールした。緻密に統治権の移譲を進めてきた秀吉だったが、後継者を甥(おい)の関白・秀次から93年に生まれた秀頼に交代させようとした「秀次事件」(95年)で事態は暗転した。

想定外の連続だった「秀次事件」

戦場のみならず統治システムにも非凡なアイデアを見せた豊臣秀吉だったが… 戦場のみならず統治システムにも非凡なアイデアを見せた豊臣秀吉だったが…

 この事件は晩年に恵まれた子供かわいさのあまり、秀吉が秀次をむりやり切腹させたと考えられていたが、矢部健太郎・国学院大教授は「秀吉個人の私情ではなく石田三成ら側近を含む豊臣政権全体の総意で秀次を中枢から排除しようとした事件」とみる。秀吉没後の秀頼の立場について見通しが立たなかったのが大きな理由だという。ただ切腹命令までは計画になかった。「関白職にある秀次を殺すことは、豊臣宗家のアイデンティティーを自己否定する行為だからだ」(矢部教授)

 理想的な展開は「少し時間をおいて秀次が手放した関白職を秀頼に継がせる形だった」と矢部教授は指摘する。しかしそうした意図に反発した秀次は、本拠地の京都から高野山に移り、自らの意志で切腹してしまう。「現実の方がどんどん秀吉の意図しない方向に勝手に進んでいった」と金子拓・東大史料編纂所准教授は分析する。秀次の自死をどう世間に説明するか、後付けの形で「謀反をたくらんだ」という筋書きを立てねばならなくなったという。

 河内将芳・奈良大教授は「落日の豊臣政権」(吉川弘文館)で、秀次事件後に天から砂や毛が降ってくる「怪異現象」の話を書き留めた公家日記を紹介している。ミステリーじみた噂が出ること自体、大名たちだけでなく貴族や一般の民衆にまで人心の動揺が広がっていた表れだろう。豊臣政権の威信低下は大きく、かなり暗い世相だったようだ。秀頼は秀吉が57歳の時の子供でほぼ2世代違う。徳川家康や前田利家ら大大名を中心になって補佐する態勢づくりを急いだが秀吉は98年に死去した。こうした過去の事例から学ぶところがあったのかもしれない。慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任した家康は2年後、子息の秀忠に将軍職をすぐ譲った。(松本治人)


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