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後継者選び、秀吉の計算と誤算

 越後(新潟県)の上杉謙信の場合はさらに迷走した。49歳で死去した時は景勝・景虎と、有力な養子が2人並立し、跡継ぎがまだ定まっていなかった。最後の最後まで決められなかったのは、2人の養子が武将としての才能も豊かなせいだったかもしれない。

上杉謙信は後継者を決めずに亡くなり「御館の乱」を招いた 上杉謙信は後継者を決めずに亡くなり「御館の乱」を招いた

 謙信の胸中にあった後継者はどちらか? その迷いを反映してか、2人しか候補者がいないのに3通りが日本史学上研究されてきている(景勝説、景虎説、謙信の越後守護と関東管領を分担相続させる説)。最新で有力なのは景勝説。しかしアンチ景勝派がすぐ景虎を擁立して家中を二分する内戦「御館(おたて)の乱」が勃発した。一時は劣勢に立たされたものの最後は景勝が勝利したが、上杉家の軍事力は著しく衰え今度は信長からの進撃を食い止められなくなっていた。

 「本能寺の変」で1番利益を得た者は誰か?後に天下を握る「豊臣秀吉」が正解の定番だが、本当は景勝だっただろう。秀吉は明智光秀に敗れるリスクもあった。最前線の城が水攻めにあって苦戦していた毛利輝元、四国攻めが本格化する直前だった長宗我部元親も危機に直面していたが、景勝は北陸、信州2方面から攻め込まれており、滅亡必至の情勢だったのだ。北陸方面で快進撃中だった勝家は信長の死で上杉どころではなくなり、猛スピードで自領に引き返している。

秀吉が生み出した統治ルール

 「一夜城」「水攻め」などの奇策で知られる秀吉は、新たな統治システムの制度設計者としても最近の研究で評価が高い。秀吉は織田信長が平氏、徳川家康が源氏などと家系を自称できないほどの下層階級出身だった。編み出した一手が「豊臣」姓の創出。さらに天下統一の過程で臣従した戦国大名らに豊臣姓を与え、朝廷の官位叙任とリンクさせる新たなルールを作り出した。秀吉を内心「成り上がり者」とみていたであろう大名らも、自らの家格を上げる官位は欲しい。

 秀吉はさらに「清華成大名」「公家成大名」など大名間のランク付けも決めていった。公家の最高位である「関白」は豊臣一族しか就任できない仕組みで、続く清華成大名は太政大臣まで昇進できる。徳川、毛利、小早川、前田、宇喜多家などが組み込まれていった。それまでの伝統にとらわれない大名統制策で、秀吉でなければ踏み切れなかったかもしれない。


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