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天下人たちのマネジメント術

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後継者選び、秀吉の計算と誤算

 豊臣秀吉はなぜ天下を統一できたのか? 「織田信長が本能寺の変で斃(たお)れたから」という答えでは経営学のテストで合格しない。経営学者である入山章栄・早稲田大ビジネススクール准教授は「織田信長が〝若くして〟本能寺の変に斃れたからだ」と解説する。事業承継で最も重要なポイントは、どれだけ早く後継者にトップ権限を委譲できるか、タイミングを見誤らないことだと入山准教授は強調する。しかしソフトバンクグループの孫正義社長が「後継者は10年かけて選ぶ」と今春の株主総会で応じたように、後継者と交代時期に頭を悩ませない経営者はいないだろう。戦国時代の名将や覇者となった秀吉にとっても事業承継は難問中の難問だった。

信玄、謙信も悩んだ後継者問題

武田信玄の遺した遺言が勝頼には負の遺産になった 武田信玄の遺した遺言が勝頼には負の遺産になった

 甲斐(山梨県)の名将、武田信玄が死去の際に「自分の死は3年間秘せ」と遺言した史実は有名だ。自筆の花押(サイン)だけを書いた白紙の書状を800枚残しておいたという逸話もある。後継者の勝頼は27歳とまだ若く、生母は隣国・信州(長野県)の出身。勝頼自身もいったんは信州で諏訪家の家督を継いでいる。名門意識の強い武田家譜代の重臣たちとは信玄在世当時からギクシャクした関係だったという。

 信玄は①勝頼の子息、信勝が成人したら家督を譲ること②武田家当主を象徴する「風林火山」の旗は使用禁止③兜(かぶと)の使用は認める--などを遺言したという。後継者を「ヨソ者」扱いしかねない重臣たちが勝頼をスムーズに受け入れられるようにとの融和策だったが「武田氏滅亡」(角川選書)の著者、平山優・武田氏研究会副会長は「信玄の心配りがかえって負の遺産となった」と指摘する。臨時の当主と印象付けられたからだ。「脆弱だった勝頼の地位をさらに不安定にした」(平山氏)という。

 ただ信玄に比べ評価が低かった武田勝頼の力量については、最近見直しの動きが活発化している。武田家の版図が最大だったのは勝頼の時代だ。当初は未熟と見くびっていた信長も、その後勝頼への評価を一変させ、武田軍の活発な動きを警戒したという。勝頼は鉄砲が活躍した「長篠の戦い」では信長に大敗したが、その後も関東地方では勢力圏を拡大していった。

 だが重臣たちが心服せず、自らの手腕を戦場で証明し続けていかねばならない負担は、最後までつきまとった。平山氏は「スムーズな相続には信玄が健在で、隠居しつつも院政を敷き勝頼を当主に据える二頭体制を取ることしかなかった」とみる。


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