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「秀吉神話」の虚実に潜む危機管理能力

検証・本能寺の変(下)

 伝奇小説の泰斗、山田風太郎の名エッセーに「秀吉はいつ知ったか」がある。天正10年(1582年)の本能寺の変(6月2日)の後、中国地方で毛利軍と交戦中だった羽柴(豊臣)秀吉は超人的な速さで畿内へ戻り、山崎の戦い(13日)で明智光秀を破った。天下統一への第一歩となったこの「中国大返し」は、「秀吉神話」の始まりともなった。秀吉自身は「備中-姫路間(約100キロ)を1昼夜で駆け抜けた」としている。これを山田風太郎は作家らしい感性と直感で考察しているが、歴史学の最新研究ではむしろ危機的状況における秀吉の決断力と情報分析力に評価が高まっている。第一次史料を駆使して検証した「くまもと文学・歴史館」の服部英雄館長(九州大学名誉教授)は「秀吉はいつ着くと知らせたか」がポイントだという。

「秀吉はいつ知ったか」 状況を読み直す

織田信長の弔い合戦で明智光秀に勝利した羽柴秀吉 織田信長の弔い合戦で明智光秀に勝利した羽柴秀吉

 当時の貴族らの日記では、本能寺の変は2日未明に始まり、午前7時ごろまでに織田信長の自害で終わった。長男の信忠も京都で敗死し、光秀自身は同日昼には本拠地の滋賀県へ引き上げている。クーデター勃発情報は2日の早い段階から各地に伝えられただろう。備中高松城(岡山市西部)を包囲し毛利軍と対峙していた秀吉にはいつ届いたか。当時の状況を鉄道距離などを基本に考えると、備中高松城を起点(0キロ)に東へ野殿(岡山市東部、約8キロ)、沼城(織田方の前線基地、約23キロ)、姫路(秀吉の本拠地、約100キロ)、京都(約232キロ)となる。中世における軍事通信の継飛脚は「1日約100キロ移動した事例が多い」と服部館長は指摘する。徒歩で時速4キロ、馬を使えば並足でも時速6キロ。2日午前9時に京都を出発したと仮定して「4日朝には問題なく秀吉に変事を知らせる飛脚が着いただろう」(服部氏)。

 通説では秀吉は4日に毛利側と講和し、高松城主・清水宗治は同日切腹。秀吉は城明け渡しなど現地にとどまり、6日に出発し7日に姫路に到着したことになっている。4カ月後に秀吉自身が信長の3男・信孝の家臣に送った書状が情報源になっている。

 服部館長は「中国大返し」時に秀吉がリアルタイムで畿内の武将に書いた書状を精密に調査した。1つは中川清秀宛てで「5日に野殿に着いた。成り行き次第で沼城まで行く」というもの。もう1つは細川幽斎の重臣に宛てた「毛利側から人質を取った。6日に姫路に馬を入れた」というものだ。服部館長は「近代軍隊は50分で1里(約4キロ)歩き10分休む」とし「1昼夜24時間で100キロ移動は全くあり得ない」と結論づける。信長の子息に自らの活躍と忠誠心をアピールする作り話と推論する。

ありえない「1昼夜で100キロ移動」

 服部館長の見立てでは、秀吉は変事を知らされた4日朝、即座に信長の弔い合戦を決意した。続いて主だった配下と情報共有、東上の手配に着手したという。約2万の自軍を先遣隊、秀吉の騎馬隊、本隊と分け、先遣隊は早くも4日に出発させた。続いて5日に秀吉隊というスケジュールだ。先遣隊は1日9里(9時間、36キロ)移動という無理のない行軍スケジュールでも6日には姫路に到着できる。実際、秀吉は姫路に2日滞在したという。後続部隊の到着を待ったのだろう。9日には明石へ出発、さらに尼崎へ進出した。藤田達生・三重大教授によれば、その間も秀吉は近畿地方の武将にさかんに情報発信していたという。自軍の状況と予定を正確に伝え、大軍の到着が近いことを明らかにして動揺を防いでいたようだ。さらに主君の弔い合戦という「ミッション」は下克上の風潮が残っていた当時でも共有しやすかっただろう。

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